こんにちは!kanameです。
本日はWebサイトにお越しいただき、ありがとうございます。
「普通」で在りたいのに、在れない人生。
踏み外したレールをどうにか元どおりにしようと足掻くことを繰り返し、
40代になり、もうどうにもならないと追い詰まった私が、〇〇。
幼少期:
ポジティブ過ぎて話が通じない父親と、被害者意識が強く生真面目な母親の間に、
長女として産まれた私の気質は、
負けず嫌いで活発な一方、繊細さを併せ持つアンバランスさを孕んでいました。
年上に囲まれた幼少期、初めて買ってもらった自転車。
補助輪が恥ずかしくて必死に練習し、
1日で乗れるようになって外してもらうほど、負けず嫌い。
子ども会で観劇した「アリババと40人の盗賊」。
観劇後のロビーで子どもたちに囲まれるアリババを横目に、
すみっこで「ありがとうございました」と
笑顔で頭を下げ続ける盗賊のおじいさんが輝いて見え、
一直線に走って行って握手を求めるほど、繊細でした。
繊細さと負けず嫌いのアンバランス
小学校
少子化が進んだ町の小さな小学校。
文章を書くのが好きで、毎年夏休み明けには
詩のコンクールと自由研究で学校代表に選ばれ、幾多の受賞を重ねました。
気が強く、いじめに合い、出る杭は打たれるを実感し、
「なるべく大人しくなろう」と心に誓ったものでした。
母親と気質の似た3個下の妹は、内弁慶で二人はベッタリ。
外見が美しく、どこへ行ってもチヤホヤされる妹を横目に、
少しずつ歪みが芽生え、勉強の成果で認められようとしていました。
星や宇宙など、答えのない科学が好きでNewtonを読み漁る一方で、
結果が目に見える勉強が好きだったので、塾通いも苦にならず、
中学受験でそこそこの中高一貫私立校に入学しました。
中学校
歌が好きだったので、軽音楽部に入学し、
歌うことを通じてミュージカル(宝塚)に興味を持ち、
レッスンを受け始めました。
中学3年の頃、
妹が中学受験で私よりも偏差値が下の学校にしか受からなかった時から、
すべては崩れていきました。
夜になって家族が揃うと、発作のように妹のヒステリーが発動。
不満を爆発させ、責め続ける毎日が始まりました。
それなのに私は、なぜか正義感に駆られ、
激情する父親の暴力や暴言から、母と妹を守ろうと盾になっていました。
朝になり、外では「普通」の顔で取り繕うことに
いつしか疲弊し、不登校になりました。
高校
中学はなんとか卒業、中高一貫だったので高校に進学するも、
入学式だけ顔を出し、そのまま進学できずに退学。
その時期、退学した高校では、宝塚受験で3人合格するという異例の事態。
そのうち1人は、軽音楽部で一緒にバンドを組んでいた友人。
容姿端麗が条件とされる受験資格に、外見のコンプレックスから、
ヘアスタイルやメイクに関心を強めていきました。
翌年、県立高校へ入り直し、
留年を後ろめたく感じながらも心機一転、
楽しく学校生活を送っていました。
半年ほど経った時、また妹の爆発が発動。
疲弊して、また不登校に。
高校2年生。
不登校の間もレッスンに通い続け、当時「夢」だった宝塚。
留年しているため受験資格が得られないと知らされ、絶望。
新たな夢として「美容師」を視野にいれるも、
不登校に拍車がかかり、またも同じ学校内で留年。
友人たちが卒業するまで一緒にいたい、というだけのモチベーション、
進級する意欲もなく、退学。
その後、アルバイトで無気力に過ごす日々。
この時期、恋愛経験もないまま、女性としての尊厳を奪われる出来事があり、
男性嫌悪が心に巣食い、ますます「普通」が遠ざかりました。
家出をして、その日暮らしを続けることで精一杯。
もう「普通の人生」は送れないというやるせない気持ちと、
微かな希望を捨てられない想いで、投げやりの毎日。
ところが、道を踏み外し続ける私を心配してくれた友人に、
ヘアメイクを学びながら通信制高校に通える学校を紹介され、
その時期の関係を一切断ち切り、進学を決めました。
通信制高校では、刺激的な学びを楽しみながら、
学期末には最優秀生徒に選出されるなど、
充実した日々を過ごしていました。
しかし、そこで再び…妹の爆発が始動。
またもや疲弊して不登校。積み重ねた信頼も失い、
お情けに近いギリギリで卒業し、理美容の専門学校へ滑り込みました。
専門学校
学歴はボロボロだけど、大卒の年齢で社会に出ることを考えれば…と、
コンテストなどにも積極的に取り組んだ2年間。
ヘアメイクから、土台の肌作り=エステティックにも興味を持ち、
多くのヘアメイクやエステのコンテストで入賞・優勝をし、
校内でも名を知られ、再び出る杭は打たれる状態の風当たりも経験。
当時流行っていた「オーラの泉」からスピリチュアルにも傾倒し、
心の癒やし所を見つけたような気がしていました。
そして、第一志望の会社へ就職。
ブライダルの美容部門をトータルで手掛ける会社で、
社会人としてのスタートを切りました。
社会人
働き始めると、朝から晩まで、プライベートの時間がほとんどない勤務形態に、
趣味で歌うことを続けたいと思っていた私は、
「社会に出るとは、こんなに自分を捧げるものなんだ」と窮屈な気持ちに。
ちょうど、宝塚を退団し、劇団四季で活躍していた友人から連絡があり、
その気持ちを打ち明けると「劇団四季、挑戦してみたら?」と言われ、
早速次の休みに観劇に出かけました。
そこで、衝撃。
こんな風に歌いたい…そう感じる歌に、出会ったのです。
同じ頃、またしても、妹の爆発。
大学卒業の一ヶ月前に「退学する!」と言い出しました。
毎日のヒステリーを見かねた親は「わかった」と了承するも、
社会に出て「大卒」と「高卒(専門卒)」の扱い・給与差を実感していた私は、
なりふり構わず説得を続けました。
その結果、妹は説得に応じたものの、
それまで有休を使って付き添った私は、またもや力尽き、
そのまま退職することになりました。
その後、5年間はアルバイトをしながらレッスンに通い、
ミュージカル俳優を目指しました。
遅い遅いスタートでも、とにかく必死でした。
一個人として人前に出るのは苦手でしたが、
「自分」ではなく「役」として、歌を通じて「違う人生」の喜怒哀楽に想いが乗るとき、
何者にも代えがたい幸福感を感じました。
そのうち、自分が目指す役を務めた代々の俳優さんに
関係者を通じて目に留めていただく機会に恵まれ、
以前、歌に衝撃を受けた俳優さんの門下生として教示も受けました。
しかし、遂に夢は叶わず、
30歳を過ぎた頃「夢を諦める選択」をしました。
普通に生きる
初めて「こうしたい」という生きる原動力を見失って、
「歌」を聞くのも辛くて、ますますスピリチュアルに傾倒しつつ、
「普通に生きてみたい」と考え始めました。
派遣で事務員として定時で働き、
休みには友人と旅行に行ったり、おしゃれを楽しんだり。
普通に恋愛して結婚して子どもを持ちたい、そう思っていました。
ところが、いざ「恋愛」をしてみても、とにかく上手く行かない。
これまで蓋をしていた精神的な歪みが一気に溢れ出し、
相手も自分も苦しめることの繰り返し。
そんな時、ふとした出会いがキッカケで、
介護施設のボランティア公演や月1のバーでのライブ公演をするように。
歌(趣味)と仕事の両立に充実した日々。
新しい出会いも増え、恋愛の機会には恵まれても、行き詰まる。
いまだに実家に居座っていたのも
「親との関係性を変えなければ他人とうまくやれない」という思いから。
自分にきちんと向き合う必要性を感じ、
カウンセリングや恋愛心理講座に通うも、暖簾に腕押し。
スピリチュアルに救いを求め、のめり込んでいきました。
「親を含めた他人への恨みや被害者意識を捨て、
全部自業自得で、これからは同じ失敗は繰り返さない」と心底思えた時、
実家を出て一人暮らしを始めました。
しかし、30代も半ばに差し掛かると、それまで一緒に遊んでいた友人が
次々に結婚して母親になり、増していく孤独と焦燥感を、
一人暮らしの新鮮さと「スピリチュアル」で誤魔化していました。
休日はスピリチュアルのセミナーやコミュニティ参加に明け暮れ、
そうしていないと自分を保てないほど、依存していました。
仕事では、事務職経験も数年経ち、
営業事務での社内受注件数が全国3位に入るなど、
それなりの成果が出始めていました。
自分の業務を改善し、全体像が見えてきた上で、
部署の課題や問題・改善点など提案してはスルーされるも、
それらが遅れて問題視されては、表面上の解決を繰り返す。
パワハラもセクハラも日常風景、
そんな昭和な会社の体質に嫌気が差していました。
「最先端の日本トップの企業で、
仕事ができる人たちとバリバリ働いてみたい!」
そんな意欲が芽生えて、数社の派遣を渡り歩き、
大手IT企業の中核「ブランドマーケティング部」に潜り込むことに成功。
転職
そこは「たったひとり」のポジションでした。
部内トップの鬼上司がいくつも受け持つチームのひとつで、
改善も整備も必要とされる重要な社内横断組織でありながら、
離職者が相次ぎ、何年も放置され、機能していないけれど失くせないから1人置いているだけ。
忙しい上司は「話しかけるな」
誰に何を聞いても自分の仕事を増やさないように見て見ぬふり、
手を差し伸べてくれる人はいない。
社内ツールもコンテンツも使い方がわからない。
複雑なシステムの全体像も見えない。
上司に「プロジェクトの理想形態」だけは共有される。
自分で何もかも調べながら、
答えが見つからない業務を終電まで何とかこなし、
帰ってからも、パソコンスキルの不足から、タイピング練習に明け暮れる毎日。
入社して3ヶ月ほど経った頃、
上司の手掛けたグループ最大規模の一大イベントが終わり、
上司と2人での毎朝30分のMTGが開始されました。
その日1日の業務の確認・相談・共有を全て済ませ、
それ以外で話しかけたり連絡は禁止。
毎日怒鳴られながら、食らいつきました。
途中、コロナ禍でテレワークへと移行し、
終電どころか、退社申告してからも深夜まで作業の日々。
収入は少しずつ増え、これまでカツカツだった生活も貯金ができるまでに。
所属していた「スピリチュアル」のコミュニティでは、
コロナを機に、選民意識が強まっていく雰囲気に、
違和感が拭えず、距離を置くようになりました。
入社1年後、そのプロジェクトを上司が掲げた期限で理想形態まで、
更に上流の方々には期待以上と評価されるところまで、成し遂げました。
その結果、確実に自分のスキルもアップしていました。
しかし、その評価は上司と関連部署の成果とされ、
上司は昇進。
新しい上司と共に、私のポジションをチーム化することに。
その後、優秀な学歴と経歴を持つ人材が次々にチームへ合流。
私は自分の業務を全てマニュアル化した上で引き継ぎし、
チーム入りしたメンバーの初期指導係&慣れてきたら秘書的な役割を担うことに。
HSP気質の自分にはとにかく快適だったテレワークも、徐々に出社の方針になり、
「あれの再現を!」と、社内でも好評を得たプロジェクトの横展開、
加えて、別のチームでも再現できるようにとサポートに入るなど、激務を極めました。
ところが、成果を出しても評価は上司やリーダーだけ。
10人を超えるチームになり、
全員のよろずや状態の私は、一番下のポジション。
以前の上司と1対1で成し遂げたプロジェクトの再現は難しく、
自分自身のフラストレーションも溜まっていました。
倍以上のお給料をもらっている人に指導し、プロジェクトを先導する虚しさ。
このままここに居ても、自分は下流のまま。
成果を出して上流工程に関わりたいと願ってきたけれど、
ここでは学歴・経歴・年齢が評価対象に入るのが、現実。
これまで、後悔はありつつも「ムダではない回り道だった」
そう思えていた過去が、華やかな経歴でキラキラしている人たちが、
自分を苦しめるものになっていきました。
また、その会社に所属していることが、
自分のアイデンティティを支えていることを自覚し、
このままではいけない、と危機感もありました。
恋愛面でも相変わらずのループ。
もう40代に差し掛かり、一生独り身の覚悟を固めなければ、と
収入面でも仕事面でも、安定を求めていました。
同時に、貯金を老後の安心のため、
情弱ながら運用に回そうとした矢先、
投資詐欺で200万円を失いました。
残った貯金は数十万。
危機感と焦燥感に駆られ、完全テレワークの希望と
キャリアアップに燃えて転職活動を始めるも、
年齢なりの経歴を求められ、全敗。
辛かったけれど、やりがいを感じられた仕事が忘れられず、
小さな規模で、自分の成果がそのまま評価につながる道を、
模索し始めました。
他の人が出来ない成果を出せたのは、ヘアメイクをしていた頃の、
1mm単位までこだわる職人肌の気質があったからかもしれない。
今からでもできる職人職はないだろうか…
テレワークでなくても、1人で黙々と作業する職人職は、
自分に適性があるように思えました。
調べているうち、接客は好きではないけれど、
国家資格を持っている理美容業界に飛び込み、
やってみてダメだったらまた考えようかな、
「収入は減っても、妥協しても、
手に職をつけて一生仕事に困らない安心が欲しい」
そう思いました。
ちょうど、専門の同級生と忘年会があり、
業界的にはありえない年齢だけど、
理美容業界に未経験での転職を考えている旨を打ち明けました。
同級生何人かと業界の情報交換をし、
年齢と未経験であることに困難を極めつつ、
ヘアサロンの転職先を見つけることが出来ました。
異業種へ転職
友人と休みも合わず、収入もこれまでの半分以下。
残った貯金を切り崩しながら、職場の近くへ引っ越しし、
3年間の修行期間は集中して挑む所存。
そう舵を切った職場では、
同年代で当たり前に結婚して子どもを持っている人たちを目の当たりにし、
心が疼いたり、大企業とのギャップに戸惑いながら、
少ない休みに家事をこなし、
朝から晩までの立ち仕事に没頭することで
自分を奮い立たせていました。
オーナーとベテラン、新人(私)。
スタッフ3人だけのお店で、
入社半年後、ベテランスタッフが急遽退職。
新しく入ってきたベテランスタッフは、
技術力が高く、オーナーも一目置き、
ワンマンオーナーの運用方針にも異論を唱える。
「ラッキー!」と思いました。
気も合い、丁寧に指導もしてくれる。
その技術を盗もうと、円満に過ごしていました。
この時、初めてお店のインスタを運用し、
少しのマーケティング知識を活かして、
評判も上々、やりがいも感じていました。
また、仕事に慣れ、なんとなく登録した出会い系アプリで
なんと、職場のお客さんからコンタクトが。
紆余曲折ありつつ、お付き合いが始まり、
人生で初めての、仕事もプライベートも充実!
と感じる時期を過ごしました。
それもつかの間、
開店前と閉店後、ベテランスタッフと二人きりの時間。
まさかのセクハラ的な言動が始まりました。
険悪になることを避けるために、
セクハラは拒絶しながらも、普通に接していたことで、
どんどんエスカレートしていきました。
オーナーに相談しても流され、
お客様の前でも違和感を感じさせるほどエスカレートしてきたので、
拒絶の態度を強めたところ、
そのベテランスタッフがオーナーを言いくるめ、2人から攻撃開始。
「お前なんて、この業界にいられないようにしてやる」と吐き捨て、
懲戒解雇にするだのと、追い詰められました。
法律や正論を言っても通じないオーナーに打つ手を失い、
適応障害を発症し、休職することに。
退社をせず休職を選択したのは、
傷病手当を受給しながら、転職先を探す道を残すためでした。
休職
久し振りに会った友人と話して、
休職中に友人のお店のインスタ運用を手伝うことになりました。
仕事はボロボロの状態でしたが、
お付き合いしていた方とは進展し、入籍をすることに。
また、休職中の気分転換で始めたインスタ運用も、
「どうせやるなら結果を出したい!SNSの運用スキル(マーケティング)も学びたい!」と、
スクールを探し、リモラボに入会。
Camp入会一ヶ月で入籍の時期が重なり、少し新婚生活を犠牲にしながらも、
ちょっとしたスクールに通う予定が、学習を進めるうち、
「オンライン秘書」という働き方を知りました。
「テレワークで稼ぎつつ、家庭と両立させたい。
学歴や経歴に縛られずに、やりがいのある仕事ができる可能性がある」
そこに活路を見出し、Camp終了後、Pro秘書コースを受講。
その頃、自営業の旦那さんから、
実は横領被害にあい、資産が底をついていたこと、
「立て直そうと頑張っていたけれど、もうダメかもしれない」と打ち明けられました。
また、開始した不妊治療も腫瘍が見つかり中断。
検査結果次第では、自分の命が残り少ないと知りました。
Pro秘書コースで学びながら、オンライン秘書的な業務で
旦那さんの会社のお手伝いをしながら、
集客もできたら…と力不足を感じました。
同時に、友人のインスタもリールが伸びてきて、
50万再生を突破しはじめ、学習の成果が出始めた頃。
webマーケコースの募集があり、
マーケティングという自分が携わりたかった分野を仕事にできる可能性があるなら!
と背水の陣で入会を決めました。